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マツバラの『富士山の道しるべ紀行』 その15


15.小仏小原
[2010
0710日(土)おおむね15301710]

峠を越えるとこれまた厳しい山道。
中央自動車道に沿って歩きます。

休日の高速は渋滞中。ご苦労さまです。

高速の下には「甲州道中板橋」の道標。
昔の道を分断して文明の道が通っているんだなぁと実感。
高速の下を通って桶谷沢道を通り小原を抜けるルートみたいですが、現在は通行不能。033_2ようやく国道20号線に合流。
ここにはずーっと気になっていた小原宿本陣があります。
これは旧清水家で、神奈川県で唯一現存する宿です。県指定文化財だそうです。
しかし!時間ははや1700近く、、、案の定すでに閉まっていました。
また次回ゆっくり見ます。036_2
平野、えんどう坂を抜けて、ようやくJR中央線相模湖駅に到着!
本日の行程は6時間10分、約20㎞でした。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その14


14.駒木野小仏
[2010
0710日(土)おおむね13301530]

西浅川に並行するように西に向かい、JR高尾駅の前を通り、西浅川交差点で再び国道20号線と別れ都道516号線に入ります。
ここからはぐんぐん上り坂になっていきます。

019_4以前は小仏頂上にあった小仏関所の石碑、蛇滝茶屋を通っていきます。
この茶屋はJR開通後に現在の場所に移転しました。
近くには高尾山の修験道者が修行をする蛇滝があり、見たかったんですが今回は割愛。
今度見に行きます。


アスファルトの道が、パタッと山道になります。
あとは鬱蒼とした林の中を小仏峠に向かいます。
途中に「森の図書館」という看板があり、そこにツリーハウスがあるという表記が。
思わず心躍り、横道に逸れたくなりますが、だいぶ奥の方にあるようだったのでこれも次回に取っておくことにします。

028_2 山道を黙々と進み、小仏峠に向かいます。
ここがきつかった!標高602mとなめていたら、かなりの山道。
ぜぇぜぇいいながら峠に到着。
昔はここから富士山が見えたことから、「富士関」「富士の峠」と言われていたそうですが、現在では木が繁って見ることができません。ざんねん。
ここは東京都と神奈川県の境でもあります。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その13


13.八王子駒木野
[2010
0710日(土)おおむね11001330]

001_2 11
00に八王子駅に近い市守神社を出発。
八王子の大通りを西へと進みます。
この辺は住まいの近くということもあり、見知ったところ、、、なのに、気づいていなかったポイントがいっぱい。
とりあえず、場所だけ知ってて行けてなかった有名なちっちゃなパン屋さんで食糧調達
歩き始めてすぐ八日町宿跡解説碑を発見。
よく通っていた八日町信号の辺が甲州道中の宿場町だと初めて知りました。
010_3
しばらく行くと追分町の信号で左に折れます。
013_2 この信号脇に八王子追分道標が建っています。
この道標は、江戸時代に甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三か所に建てられた道標の一つです。
その後昭和2082日の八王子空襲によって四つに折れ、一部行方不明に。
地元の要望で残っていた二段目と四段目は当時のものを使用し、他を補充して平成15年に復元されたそうです。

国道20号線をずんずんと進んでいきます。
途中、長房団地入口交差点を右に折れ、高尾山道石碑を回り、少しだけ国道20号線から離れた道を歩きます。
国道より雰囲気のある家が並びます。

すぐに国道20号線に合流し、多摩御陵方面に向かいます。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その12


12.日野八王子
[2010
0706日(火)おおむね16001900]

134_3 日野宿には、高幡不動石碑、問屋場・高札場跡とともに日野宿本陣の建物が残ります。
日野宿本陣は都内に現存する唯一の本陣で、日野市の有形文化財に指定されていて、中を見学することができます。
140_3 ワタシは甲州道中の流れで見に行ったのですが、ここには、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。
ここでは、後の新選組局長となる近藤勇や副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだんだそうです。
その道場の建物はすでになく今は駐車場になっていますが、土方歳三や沖田総司と同じ場所に立つのはなかなか感慨深かったです。
 

その後日野駅に沿って南西方向に向かうけっこうキツイ坂を上っていきます。
立派な日野自動車の工場を右手に見ながら、暮れゆく夕日と競争するように歩を進めます。

国道20号と合流して、みなれた八王子の街に入っていきます。
途中、「日本橋から43km」の道標を見かけ、これまで43kmを歩いたことを知ります。
それが長いのか、これからが長いのか・・・(笑)。
大和田橋を渡って八王子入り。
夕闇のなかみた竹の鼻一里塚跡は、盆踊りの準備をする小さな公園を守っているように見えました。

市守神社を残して本日の行程は終了!
7
時間のながーい旅は、くっきりとした日焼けの跡を残しましたー(笑)。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その11


11.(本宿交番前交差点脇の常夜燈)日野
[2010
0706日(火)おおむね13001600]

096 本宿交番前交差点脇の常夜燈からしばらく行くと、こじんまりした神社の後ろに見慣れないものがありました。
武蔵府中熊野神社古墳です。
飛鳥時代につくられた上円下方墳で、中国の「天円地方」という宇宙観や思想を反映した構造をしていると考えられるそうです。
どこにも記載はなかったのですが古墳の前に拝殿を配してあることから、この神社は古墳を本殿と考えて作られたのでしょうか・・・。
このあたりは敷地が広い古い家が多く、閑静なたたずまいをみせています。

再び国道20号と別れて、都道256号を進みます。
しばらくすると谷保天満宮が現れます。103
ここは何度も前を通っていて気になっていた神社。
樹木の間の石畳を通っていくと、階段を下り、その先に拝殿、本殿があります。
普通神社は高台に鎮座しているものなので、ここのように下に下る神社は珍しいですね。
どおりで通りから本殿が見えなかったハズです。

そのままずんずん進んでいきます。
途中に元青柳村の常夜灯や馬頭観世音などが道端に見られます。
旧甲州街道は日野橋につづく五差路の日野橋交差点を、橋の方ではない一番細い道をいきます。
途中車が一台しか通れないような道になりますが、旧道と現在の主道は一致しないことをあらためて感じました。
錦町下水処理場脇の日野渡しの石碑や馬頭観世音を見て、多摩川にでます。
昔はここから多摩川を渡る渡し船や人工がでていたそうです。
127_2 土手を通って立日橋を渡ります。
モノレールと並行した橋で、見通しもよく晴々した気持ちになりました。
暑い中がんばった自分にちょっとしたご褒美をもらった気分です。

橋を渡り、都道256号近辺が日野宿となります。

本宿交番前交差点脇の常夜燈は『富士山道しるべ』の項目にないので、( )を付けました。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その10


10.府中(本宿交番前交差点脇の常夜燈)
[2010
0706日(火)おおむね12001300]

雨続きでなかなか歩を進められず。
ようやく府中出発です。
梅雨の半ばの酷暑といっていいほどの暑さ。

大国魂神社を横目にみながら西に向かってスタート。
すぐに高札場跡があります。076_2
雑多な通りに突然シンとした板塀の囲いがあるから以前から気になっていました。
高札場とは、法度や掟書、犯罪人の罪状などをしるし掲げた高札を建てた場所です。
江戸には日本橋などの六か所の大高札場をはじめ、35か所の高札場があったそうです。
府中の高札場は、甲州街道と鎌倉街道が交差する大国魂神社御旅所の柵内にあったそうです。

高札場から進んですぐ右手の公園の中には番場宿解説碑があります。
こういったわりと新しい石碑がこれからの道中いくつか出てきます。
銅板に明治初期の地名や地図が彫ってあるのですが、変色してよく見えないのが残念。
踏切を超えて、いままでずっと並走していた京王線とはしばしお別れになります。

国道20号に合流するまでは比較的狭い都道229号をいきます。
道端には古いたたずまいのお店が残ります。
住宅の軒先に設置された農産物直売所がいくつも並んでいました。
お得な新鮮野菜を見て買い物したい気持ちをぐっと抑えて先に進みます。078_2

本宿交番前交差点脇には常夜燈が建ちます。085_2
常夜燈とは毎晩火が灯っていた石塔で、17世紀半ばに火事が多く水が乏しいこの本宿村で「講」をつくり、火を鎮めたことが始まりみたいです。
当番制で毎晩この石塔に火を灯し、その明かりは太平洋戦争末期の灯火管制まで続けられたそうです。

本宿交番前交差点脇の常夜燈は『富士山道しるべ』の項目にないので、( )を付
けました。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その9


09.布田府中
[2010
0630日(水)おおむね15301800]

金山彦神社から少し行って左側、西光寺があります。
ここには近藤勇の座像があることで有名だそうです。
この先の新撰組に縁があるエリアの先触れですね。楽しみです。

20100630_021 しばらく行くと今度は開かれた空間に飛田給薬師堂があります。
ここには大きな木と本堂、そしてお墓が並んでいます。
仙台の人、松前意仙という人にゆかりの場所になります。
看板によると、各地の仏閣廻拝を遂げようと諸国遍歴したのち、この地に足を留め薬師如来像をつくり、その後入定されたそうです。
石造りの薬師如来は140cmの正立像で、左手に薬壺を持っているそうです。
松前意仙が医師だったことに由来しているのかもしれませんね。

20100630_031 夕闇が迫る中、今日の目標の府中まで歩を進めます。
大国魂神社についたのは1800。すでに薄暗くなってきていました。
来年までの無病息災を願って、ここでも茅の輪くぐり。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その8


08.下仙川布田
[2010
0630日(水)おおむね14001530]

再び仙川へ。
駅の北側にはかわいい雑貨屋さんやおいしそうなケーキ屋さんがあって
ゆっくり寄れないことが悔やまれます。

さて!今日の出発~。

仙川駅交差点のコンビニの脇には一里塚の石碑があります。20100630_001
ここで日本橋から五里(約20km)。甲州街道と三鷹街道の交差点にあたるそうです。
今は昔の面影は残っていませんが、土地の人は今でもこの辺りを「塚」と呼んでいると、石碑に書いてありました。

甲州道中をひたすら西へ進みます。
国領のあたりの「旧甲州街道入口」交差点で国道20号を離れて、小島分、布田を進んでいきます。
途中、商店街の一角に道祖神さんやお地蔵さんがあったりと、土地と旅の平安無事を祈ります。

20100630_009_2  調布といえば、ちょうどNHKドラマの『ゲゲゲの女房』の舞台にもなったところ。
水木しげるの漫画の中に描かれている調布の街を大きくプリントして
商店街のあちこちに展示してあったり、
焼き菓子屋さんで「妖怪焼き」というゲゲゲの鬼太郎のキャラクター焼きがあったりと、街をあげてゲゲゲ状態になっていました。

20100630_016_3 「東府中三叉路」交差点の手前に金山彦神社がありました。
ここは江戸時代初期の慶長時代(1600年頃)に刀鍛冶に従事していた由緒があり、金山彦命を祭神としています。
旧甲州街道脇のアパートをすり抜けるように入ると、
鬱蒼と茂る樹木の間にこじんまりとした本殿と茅の輪。
今日はちょうど夏越しの大祓いで、これから式典をするようでした。
重々しくじっとりとした空気がこの場所を覆っていました。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その7


07.高井戸烏山下仙川
[2010
0625日(金)おおむね16001800]


下高井戸あたりは歴史的史跡もとくになく、ひたすら黙々と歩きます。20100625_055
鎌倉街道入り口信号に来てようやく日本橋から16km
高速道路の真下に位置するあたりに昔は一里塚があったそうです。
この一里塚跡を探すのに思わぬ時間のロス。ここを3往復もしてしまいました~。
玉川上水を利用した公園がここにもありました。

そして上高井戸信号で国道20号から分かれます。
上高井戸あたりは甲州街道が敷かれたときには日本橋から一つ目の宿場町として栄えたそうです。
しかし他の街道に比べても日本橋からの距離が遠く、(他の街道は日本橋から2里の場所に初めの宿場町があったのにくらべて、上高井戸は4里の位置にあった)、じきに内藤新宿ができそこが栄えるとともに上高井戸宿は衰退していったそうです。
今は旧道の両端の土地の区割りぐらいにしか当時の面影が残っていないそうです。
(実際あるいてもその面影すら感じられませんでした)

住宅街の道といった趣の旧甲州街道をひたすら歩き、再び国道20号と合流する仙川三差路にでたところで、今日の行程を終了。
予定通り18:00ピッタリに三差路に着きました。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その6


06.新宿高井戸
[2010
0625日(金)おおむね13001600]


20100625_047_2 曇り空が熱気を閉じ込める昼間。
今日は新宿からスタートです。
前回じつは新宿追分までたどり着いてなくて、その手前を曲がって別件の用に行ってしまいました。
20100625_007 そんなわけで、今日は新宿追分へ。
スタートの前に近隣にある富士塚を見物。
花園神社にある新宿富士は境内の片隅にひっそりとありました。
その後、大宗寺で江戸六地蔵のひとつとして知られ、旅の安全を祈願するといわれている「大金銅地蔵」(2.67mもある)をお参り、そして新宿追分の南側にある天龍寺で「時の鐘」を見学しました。
そうこうしている間に時間は14:00
今日の目標は下仙川まで踏破なのにのんびりしてしまいました~。
気を取り直していざ出発!20100625_038_5
新宿追分は伊勢丹脇の大きな交差点。脇には追分の石標が建ちます。
毎日たくさんの人が行き来するこの場所。
どのくらいのヒトがこの場所の意味に興味を持つかな~、とインタビューしたくなってしまいました。

  話題のFoever21を左手に見ながら一路国道20号に入ります。あとはひたすら西へ西へと向かっていきます。
都庁を右手に見るあたりから、国道20号に沿った緑道を通っていきます。
この緑道は玉川上水を埋め立てたものだそうです。
緑道にはトイレや休憩スペースが随所にあるので、一休みには事欠きません。高速の下をひたすら歩いていきます。一時間少々で笹塚交差点に到着。
信号脇には道供養碑が建ち、日本橋から12kmの表示が出ています。
(これだけ歩いてまだ12kmか・・・と少々ぐったり)
気を取り直してぐんぐん進むと、松原という地名が。
そう、マツバラと同じ名前です。
妙な親近感を持ちながら更に進みます。
瀟洒な校舎の明治大学を通りかかったのは15:45
明治大学の土地は、江戸時代には幕府の塩硝蔵(弾薬を貯蔵するところ)があった場所であるという説明板がありました。

追分(おいわけ)は、道が二つに分かれる場所をさす言葉。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』 その5


麹町四谷新宿
[2010
0621日(月)おおむね17001800]

道は次第に北西々に方向を変え、江戸城外堀へと向かいます。
四谷駅を跨ぐ四谷見附橋のすぐ北側には、見附跡の石垣があります。
見附とは、見張り番が置かれていた城門などの施設で、四谷見附は江戸城三十六見附の一つ。
国道20号と都道430号の境目、現在の四谷四丁目交差点あたりには、かつて四谷大木戸がおかれていました。
新宿歴史博物館所蔵の『江戸名所図会』に描かれている「四谷大木戸」を見ると両脇に大きな石垣があり、その間をモノや人が賑やかに往来していたことがわかります。
四谷四丁目交差点に立って耳を澄ますと、かつてそこに響いていた物売りの声や馬の蹄の音が聞こえてくるような気がして、妙に心が騒ぎました。
この交差点の脇には四谷大木戸跡を記念する石造物が建てられています。

20100621_072_3 そのまま都道430号を通り、新宿に入ります。
『富士山道しるべ』は実質この先の新宿追分を起点に始まっていて、(日本橋から新宿までは「1里半(約6km)で新宿」と略されて記載されているんです)マツバラは二日かけてようやくそのスタート地点に立ったわけです。
新宿近辺は富士塚が多く残っているので、次回のスタートに余裕があったら観にいってこようと思います。
新宿追分から方向を変え、国道20号を一路山梨に向かいます。
(途中、国道20号を見失ってる気がしますが・・・気のせいでしょうか)


マツバラの『富士山道しるべ紀行』その4


日本橋麹町
[2010
0621日(月)おおむね15001700]

20100621_010_6 梅雨の晴れ間をぬって少しでも進めておこうと、再び日本橋に立つ。

(それにしても八王子から日本橋って、遠い、、、)
前回とはうって変わった好天にウキウキしながらスタート!
青い空に三越などの建物が映えます。
三越前の江戸桜通りを西に向かう。
日本銀行は旧館が重文に指定されていて、

建物を上空から見ると「円」のカタチをしているとか。
旧常盤橋をわたって更に西に向かいます。20100621_025_8
NTT内にある信総合博物館、産経・読売新聞社を右手に見ながら進むとビルの間にポコンと聖域があらわれます。平将門の首塚です。都の旧跡で、ビルの谷間に突然現れるオアシスのようになっています。
平将門の首塚は秋葉原にもあった気がしますが、どちらが正解なのでしょう。
そのまま進むと水辺にたどり着きます。
そう、皇居のお堀なのです。
平日にも関わらず、お堀の周辺はウワサに違わずランナーが多かったです。
「富士道」としては皇居(旧江戸城)を北に回るルートと、南に回るルートに分かれますがマツバラは北を回るルートを選択。
次第に斜光になる太陽を浴びながら、平川門、竹橋を見て皇居に沿って歩きます。
平日は一般に開放されている皇居も、月曜日はオヤスミ。
乾門も半蔵門もおっかないオーラの警備の皆様が封鎖していました。
半蔵門まで来ると、いよいよ甲州街道に国道20号の表示が出る道を西へと歩き始めます。(ここまで「国道20号」の表示はありません。)
半蔵門から麹町はビル街の中、淡々と過ぎていきます。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』その3


■03.鉄砲洲日本橋
[2010
0614日(月)おおむね15001630]

鉄砲洲稲荷神社で出発の決意を新たにした後、日本橋に向かって北上しました。

道は当然アスファルトだし、お店もコンビニもあるし、風情とは程遠い風景です。

途中、何気ない片隅に赤い可愛い鳥居の日比谷稲荷神社がひょっこり。
今回の旅にはあまり関係ないけれど、足をとめて案内板に由来が書いてありました。
長禄元年(1457)に江戸城を築かれた際、城外日比谷の海岸(現日比谷公園内)に建立したのがこの日比谷稲荷神社のはじまりだそうです。
家康が江戸城に入り城域の大拡張工事が始まり、慶長11年(1606)にその地に日比谷御門を建設することとなり、崇敬者によって八丁堀先の干潟を埋築、現在の場所に遷座したそうです。
戦災にて消失し、現在の社は昭和23年に再建されたもので、比較的新しいですが地域で神様を大切にしていることを感じました。

その後、新大橋通り、永大通りを通って日本橋に到着。

日本橋といえば五街道の起点。
その一番のはじまりになるのが「道路元標」、なのに雨の中往復して探してもどこにもない。
仕方なく近くの交番に「道路元標ってどこでしょ?」と聞いてみると
「道路の真ん中にあるんだよ。車がいっぱいで危ないから見れないよ。橋の袂にレプリカがあるよ。」と、おまわりさんが教えてくれました。
20100614071_2 道路元標はあれかなぁと日本橋のど真ん中を横目に見ながら橋の袂に行ってみると、レプリカ発見。
この文字は時の総理大臣佐藤栄作の書とのこと。
あと橋の表札はなんと徳川十五代将軍徳川慶喜の書なんだとか。

今日は強風と雨のためここで断念。


マツバラの『富士山道しるべ紀行』その2


■02.鉄砲洲稲荷神社を出発
[2010
0614日(月)おおむね15001630]

本日より入梅。

わざわざ雨の中の出発となりました。
せっかくだから晴れの日を待とうかなぁとも思いましたが、梅雨に入ってしまえば雨ばかりのなか歩くんだと、覚悟も込めて思い切って歩き始めることに。

東京メトロ日比谷線の八丁堀駅から地上にでると、やはり雨。
鉄砲洲富士がある鉄砲洲稲荷神社を目指します。

20100612049_2 亀島川が隅田川に合流する辺りに、目的の鉄砲洲稲荷神社がありました。
雨にぬれた鳥居と神社はなんともいえない風情があります。まず手水舎で身を清めて神社にお参り。道中の無事を祈りました。
そしていよいよ鉄砲洲富士の前へ。
神社の正面を右に回った隅にあります。マンションに挟まれてはいましたが、いままで写真でしか見たことがなかった場所に実際に立つというのは
なかなか感慨深いものがあります。
雨にぬれた富士塚は風情というよりむしろ、怖いくらいの威厳がありました。
古から幾多の人々の旅立ちを見守ってきた富士塚。富士山の溶岩を積み上げて築かれた様相は、かつては死と隣り合わせともいえる厳しい道中を、旅人に示しているようにも感じられます。
私もここでも道中の無事を祈って発拝み(たちおがみ)。

鉄砲洲神社で驚いたのは、若い女性(自分も含めて。オホホ)の参拝が目についたということ。
到着したときにも、雨のなか二人の女性が。私が参拝する前にも一人女性が。
いま流行のパワースポットなのかもしれませんね。



マツバラの『富士山道しるべ紀行』その1


■01.ことはじめ
「富士講」の道を歩いてみたい。
ずいぶん前に山梨日日新聞に掲載されていた「日本橋から富士山まで富士講の道をたどる」の記事に心惹かれてから、ずっと心の隅にあった目標でした。

「富士講」というのは江戸時代に成立した富士山を崇拝する民衆宗教のことをいいます。
修験系行者の長谷川角行が開祖といわれ、17世紀後半になって分派し食行身禄派により発展していきます(食行身禄は享保18年(1733)に富士山北口の七合五勺で入定)。講員(信者)は先達(富士山の麓に住む先導者)に導かれ富士山へお参りします。当時、富士講員は富士山への道のりを歩いて向かいました。
江戸時代末期の1860年(御縁年)、『富士山道しるべ』が版刊、新宿から甲州道中をたどり大月から富士山へ向かう道を紹介され、富士山を目指す多くの人々の指南役となりました。
20100625_053_2 冒頭の「日本橋から富士山まで富士講の道をたどる」の記事は、その道を現代に復活させたイベントなのです。富士吉田市の歴史民族博物館では「『富士山道しるべ』を歩く(改)」(2010年第二版発刊)を発刊して、旧来の道がどの程度残り歩けるのか、現代の江戸(東京)からの参詣路の実情を紹介しています。

マツバラはその本を片手に、この夏に「富士山道」を自分の足で踏破することに決めました。
季節はおりしも初夏。これから梅雨や酷暑が予想されるのに反して、マツバラはまだ見ぬ「富士山道」に心ウキウキなのでした。


※[おことわり]
紀行文の中で、富士吉田市歴史民族博物館「『富士山道しるべ』を歩く(改)」(2010年第二版発刊)の文章を参考・引用している部分があります。(全国明社理事 松原久美子)