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明社志民カレッジ第2回研鑽報告 その1前編


引き算型まちづくり (愛媛県内子町に学ぶ) 研鑚会報告

(H25年7月13日~15日 全国明社志民カレッジ第二回研鑚会 )

 

~共造の町・村づくり と 仕組みづくり-反骨精神のカリスマリーダー~

 

()反骨精神一杯のカリスマリーダー

003俺は誰に喰わして貰っているのか? 住民の税金で喰わせてもらっている。 そうしたら住民のために働こうと思った。今回の研鑚会の案内役「岡田文淑」氏の第一声であった。

町役場に就職した氏は、住民不在の行政の姿勢・政策に強い疑問を抱いた。行政と民間企業の関係も気に入らなかった。

上から目線の血の通わない行政、下から上を見上げる「お上様様」の民間企業や住民の意識。若い頃は喰ってかかった氏は、誰彼となく役場の中で「喧嘩」を吹っかけたという。

「喧嘩するからには、勝たなければいけない。そのためには勉強しなければならない」。

どんな質問をしても即座に答えが返ってくる。何でも知っている。ただ者ではないと、直ぐに感じた。

 「人口の減少が止まらない」このままでは町は消滅してしまうとの危機感から

 内子はこれと言った特産品がない。内子を支えるには観光しかない

と 本物を見抜く目を持った氏が「共造の町・村づくり と 仕組みづくり」を始めたきっかけ。
始めてから数年間は周りから「大きなお世話」と怒鳴られ、冷たい目で見られたという。

持ち前の反骨精神と勉強熱心さで、少しずつ周りを説得し造り上げていった という。

実に今日まで38年の時間と莫大な地元への投資をしている。それも子ども、孫たちのためにである。 「将来を見据えた、気の遠くなる作業の連続であるだろう」現在もその作業は進行形である。

 

(2)町づくり

①内子町 H24/6現在 人口18,000 世帯数7,300 2.5人/世帯 高齢化率34% 

②旧大洲藩 旧大洲街道沿いに発展 市街地中央部の肱川に流れ込む3本の支流で形成されている瀬戸内海、宇和海(日向灘)に近い内陸山間部の町

江戸末期から大正末期まで和紙と木蝋で栄えた産業・商業町であった。

内子から大洲街道を通して、特に蝋の産品が日本、世界へと輸出され大いに賑わった。

この地方要衝の地であったことで西武グル-プを生んだ近江商人と近い感覚があるかもしれないが、多く     の著名人を輩出している。 アサヒビ-ルの創業者・高橋龍太郎、その長男アサヒビ-ル会長・高橋吉隆、     94年のノ-ベル文学賞・大江健三郎、双日(旧日商岩井)・高橋社長 など
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③町並み保存運動のきっかけは町役場の産業開発課には配属された氏が「人口の減少が止まらない」
   このままでは町は消滅してしまうとの危機感から1975年に町並み保存運動を立ち上げた。

 町並み保存運動の原点は「住民のコミュニティを復活させ、住みよい地域を皆で造っていく」こと。

⑤氏は1975年旧大洲街道沿いの古い商家の並ぶ護国地区の町並み保存から始めた ⇒ 古いボロボロの町並みの地元住民は、その価値が分からず冷ややかな態度 ⇒ 今では一部京都などには景観規制はあるものの、その当時は人様の家を勝手に残すとは何事だ! ⇒ 自分の家の全てが自分のものであり、外観や町並みの景観などには注意を払わない ⇒ これまでに成功した全国の本物の町造りを住民と一緒に視察、勉強 ⇒ 感動し夢(再生したくさんの観光客で活気づいた町)の共有化 ⇒ 3年後の78年、町の助成+2割の自己負担で修理・改修が始まる ⇒ 85年には国は大正末期築の芝居小屋「内子座」を含めて八日市護国の町並みを「重要伝統的建造物群保存地区」に指定 ⇒ 保存地区の格は上がった ⇒ その名が全国に轟く ⇒ 町の観光協会が宣伝 ⇒ 観光客激増 ⇒ 大手観光会社のまがい物の観光業がのさばる ⇒ 町は観光客の対応におおわらわ ⇒ 保存地区の住民が移転を余儀なくされることも ⇒ 町並み保存運動の原点が一部失われる結果に 

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 どこでどう間違ったのか、町の観光行政が町並み保存運動の原点を失う結果を導いてしまった。

 ここで氏を含めて内子の人たちは、その後の運動を考えさせられる大きな勉強をさせてもらった。

 「重要伝統的建造物群保存地区」に指定された85年に、氏は突然移動を命ぜられ「産業振興課」に移らされた。